新羅(しらぎ[1]/しんら/シルラ、紀元356年[2]- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。
ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー
7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。
『三国史記』の新羅本紀は「斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展してが基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。
『太平御覧』で引用する『秦書』には、377年に前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。この記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。
また、広開土王碑や中原高句麗碑により、時期によっては倭や高句麗によって一定の支配を受けていたことも明らかとなっている。
当初は様々な書き方をしていたのを6世紀に正式に「新羅」という表記に統一した。
6世紀中頃に半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐を支援し唐軍とともに戦ったが、その後、百済の旧領の全土と高句麗の南半分から唐軍を駆逐し朝鮮半島をほぼ統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済・後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。
新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。
中国の書物の伝える新羅建国
隋書東夷伝によれば、その王はもと百済人で、海から逃げて新羅に入り、ついにその国に王となった。祚を伝えて金真平に至った・・・。その先には百済に附庸していたが、のち百済が高句麗を征するのに困って、高句麗人は戎役に堪えられず、あい率いてこれに帰したので、ついに強盛を致し、困って百済を襲い、迦羅国に附庸となった。
建国神話
『三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。
朴氏初代の朴赫居世
辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「バク(=朴)」を姓として名乗った。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍が現れ、その右脇から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は王妃に迎えた。当時の人々は赫居世と閼英とを二聖と称した。また、建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。
昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
倭国東北一千里のところにある多婆那国[3]の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)
脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。
赫居世神話に現れる六村はのちの新羅六部の前身であると見られており、これらの部と王統がそもそも結びついていないことを示している。また3姓の始祖説話については、それぞれに誕生の形態が異なりながらも姓の由来を説くものであり、3つの有力な集団があって王位を持ちまわっていたということが窺い知れる。これらの始祖説話は紀元前後に繋年されたものではあるが、実際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られており[4]、後代に整備されたものであるとの可能性もある。いずれにせよ、複数の王統を持つことや、建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。
日本側伝承では、『新撰姓氏録』が新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしているが、稲飯命は、『古事記』においては母の国の海原へ行ったとされ、また『日本書紀』においては神武東征の際に嵐を鎮めるため海に入水したとされるなど、新羅との関わりには触れられていない。しかしアメノヒボコ伝承や出雲神話などに早い時期から新羅と倭との関わりが暗示されている。
上代
長らく高句麗に従属していたが、5世紀中頃からはその支配下から脱却しようとして高句麗とも争うようになった。一方で辰韓諸国に対する支配力も高め、伽耶諸国の領有をめぐって百済とも対抗する姿勢を明らかにし、三国が相競う様相を示した。6世紀になると智証麻立干・法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸収し、文字通りの三国時代となった。中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年に南朝の陳にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
唐の中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は淵蓋蘇文が実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済の義慈王と連携したため、新羅は国際的に孤立することとなった。新羅は643年に善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の?曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金庾信とは真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。
中代
武烈王の即位から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。
武烈王の即位後、唐と結んだ新羅は唐の援軍と共に金庾信に軍を率いさせ、百済に進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に白村江にて倭国の水軍を破り(白村江の戦い)、668年に高句麗を滅亡させた。この間の戦力の成長を支えたのは、伽耶が開発した鉄生産技術の取得が背景にあったものと見られる。
その後、旧百済領を占領していた唐とその支配権をめぐって対立し、670年から争ったが、676年に唐軍を半島から追い出し、旧高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいる。
半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。しかし、696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる[5]。732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。
統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・伽耶領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て中華風に改められている。
天武天皇の即位から780年までは、日本との関係は比較的良好であり、双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。しかし、780年に渤海と新羅の間が緊張し、渤海が日本へ遣日本使を派遣すると新羅と日本の間の国交は停滞した。また、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来より新羅を属国と見なして来た日本[6]は激しい反感を持ち、その様子は、753年に遣唐使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争った事件や、恵美押勝(藤原仲麻呂)が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張(新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている)に伺える。
国家レベルでの関係は緊張したが民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、新羅商人が大宰府および九州に来て、唐、新羅の文物を日本へ、日本の文物を新羅、唐へと運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。また、日本の遣唐使も帰国の際には、新羅船を利用することが多かった。
下代
780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位纂奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。この780年代から新羅滅亡までの期間を下代と呼ぶ。
この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に破れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす様になる。822年には熊州で新羅王族の金憲昌が、825年には、その息子の金梵文が反乱を起こしているがいずれも鎮圧。841年には、清海鎮(全羅南道莞島)で張保皐が反乱を起こしたが、暗殺されている。しかしながら、これらの動揺は地域社会にも波及し、9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。
その中でも有力な勢力であった農民出身の甄萱が892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔が901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。その中で後高句麗の武将であった王建が918年に弓裔を追放して建てた高麗が勢力を伸ばし、935年に最後の王・敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順したことにより新羅は滅亡した。
王
歴代王については 朝鮮の君主一覧#新羅を参照。
上代では新羅の王族は姓が一定していない。初代赫居世居西干は朴、4代脱解尼師今は昔、13代味鄒尼師今は金となっており、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がそれぞれ始祖説話を持っている(詳細については既述)。13代金味鄒は金閼智の子孫とされているが、後になってこの金閼智の子孫を称する一族が金氏王統となり、統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった。
三国史記では法興王の時代521年に中国南朝の梁に使を遣わした新羅王は、姓は募、名は秦と伝えられる。564年に北斉の鄴に使を遣わした新羅王は金真興であった。募という姓は慕韓とも書かれる馬韓のことで、新羅王家が百済系だという「隋東藩風俗記」の伝承が史実であることを示している。新羅は532年に金官国の王である金仇亥を降し、536年に初めて国号を立て建元元年とし、545年には初めての国史を編纂、554年には百済の聖王を管山の戦いで殺し、562年に加耶国を征服して任那を完全に併合した。その2年後の564年に金真興が現れるので、金姓は金官国の王家の姓を百済との絶縁の象徴として採用され、金氏の系図もこの頃造られたものであろう。
ただし、統一新羅王朝末期には、52代孝恭王に子がいなかったために朴景暉が推戴されて王位を継承(53代神徳王)し、その後55代景哀王までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)敬順王の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に戻ってから間も無く滅亡したことになる。
新羅の王(君主)を表す称号としては『三国史記』には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)、尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由来の表記が見られ、第22代の智証麻立干の代で王号を「王」に定め、諡の制度が始まったとしている。また、中原高句麗碑文や『日本書紀』には寐錦、蔚珍鳳坪碑文には寐錦王、迎日冷水碑文には葛文王、『太平御覧』で引用する『秦書』には楼寒(これについては麻立干に相当すると考えられる)などの表記が見られる。